博物館 網走監獄をまわってわかる歴史、当時の過酷な環境。当時使われていた建物と蝋人形で再現されている。北海道に行ったら寄ってみて欲しい観光スポットの一つ。
前日、宿泊した北見市から激しい雨天候の中、車で1時間くらい走って到着
地面の水溜りを更に打ち付ける大きい雨粒が「網走監獄にようこそ!」って言ってるようで、雰囲気出ちゃってるなーと思った。
チケットを購入し、赤いレンガ道を少し歩くと出てくるレンガ正門。
チケットは一般大人で1,050円。
網走刑務所の旧庁舎の中には、小さい売店があった。この日は雨だからか、原口あきまさみたいな顔した蝋人形さんが傘を販売していた。
旧庁舎にあった「面会所」。
1930年代の面会時の様子を再現しているらしい。間仕切りのないこのような面会は成績の良い受刑者しか使うことを許されなかったみたいで、面会時間は最大30分。
今では14歳未満でも面会が許されているみたいだけど、当時は許されていなかったんだって。
少年院ではないから、きっと14歳未満の面会者のことかな?
以下は「面会所」にあった「網走送り」についての説明文。
網走送り
蝦夷地が北海道と改まっても依然として未開地であったこの地は罪囚にとっては「再び生きては帰れない」流刑地でもありました。
ことに明治36年集治監廃止になったあとも、網走監獄は本道でただ一ヶ所の残された集治監の暗いイメージを引き継ぎましたから押送される罪囚も後に残る家族にとっても悲壮な思いでした。
昭和になってから東京から3泊4日もかかり多額な旅費を工面してでも会いたいと願う家族はわずか30分の面会に人目を避けながら刑務所のいかつい正門をくぐりました。それだけに刑務所では受刑者や親族の身の上を思いやって接見にも細かい気配りをしました。
30分のために3日以上かけて網走まで会いに来てた面会者たちは、どうしても一目会いたい気持ちでここまで来れたんだろうね。
網走刑務所職員官舎は監獄の中にあっても子どものにぎやかな声が聞こえる別世界のようだったらしい。
監獄の中に子どもが居るって不思議な感じ
囚人たちが寝泊りする「休泊所」。
受刑者が塀の外に出て、日帰りできない作業をする場合は「休泊所」と呼ばれた仮小屋で寝泊りをしました。明治24年の網走から札幌へと続く中央道路開削工事では、延べ1,200人の受刑者が投入され、工事の進行とともない、休泊所を解体しては移動していきました。別名「動く監獄」と呼ばれ、後に厳しい監視と強制労働で知られる一般労務者の飯場(たこ部屋)のつくりは、これを模したといわれています。
一本の丸太を枕にしているのは、朝丸太の端を叩いて起こすためのものだったらしい。平均睡眠時間が4~5時間で睡眠不足の囚人たちを起こしやすくするための方法だとか・・・。可哀相に
丸太一本をみんなで枕として共有って、これも今では考えられないよね
耕耘庫で作業中の囚人たち。
耕耘庫
農園刑務所として全国的に有名な網走刑務所は、明治29年に開墾された農地は220町歩(21,800アール)にもなり、農機具や肥料を入れておく倉庫や、収穫された作物を入れる小屋が、このような板ぶきや草ぶきで10棟ありました。
アメリカの近代的農業制度を取り入れていましたので、その技術は非常に進歩したものでした。
作業中の囚人の中の一人は円形脱毛症になっていて(?)、作業のつらさが伝わる・・・?
きっとこれはわざと円形脱毛症を再現してるものかと思ったんだけど、違うのかなw
監獄歴史館には証明写真みたいに入獄写真を撮れる機械が有料で設置されていて、数多くの人が記念に写真を撮ってる様子。
自分の写真をここに残していくくらいだから、きっと見て欲しいのかな?と勝手に判断。
面白いので載せてみるw
現在の網走刑務所を再現した「単独室」は、広さが約四畳半。
食事も再現されていたよ。
結構美味しそう
共同室は原則6名収容らしく、16畳半の広さ。
単独室より広々しているし、トイレにもドアがついてるけど、どちらがいいのだろうね?
監獄歴史館の中にあった「赤い囚徒の森 体感シアター」では、中央道路開削工事にまつわる囚人たちの過酷な労働による大変さ&死の話を描いた7分間のムービーが見れる。
短い上映時間でも、当時の囚人たちの辛さがわかって悲しい物語だった。
囚人の蝋人形たちと記念撮影が出来る遊び心も取り入れている歴史館。
次は「五翼放射状平屋舎房」。
平成17年7月12日文化庁より登録有形文化財に認定されてるらしい。
この舎房は明治42年の火災で焼失後、それまでの並列型に代わって、同45年に再建された舎房です。
中央見張りを中心に雑居房・独居房・鎧格子・矢筈格子といった独特の建築技法を採用し、昭和59年9月まで使用されていました。明治獄舎の名残を完全にとどめる舎房としては国内最大規模で、ことに木造では現存する我国最北端の監獄として学術的に貴重なものとされています。
監獄の部屋にあるトイレ。
中はどんなふうになってるのか気になったので、ドアが開いているトイレを見つけて拝見。
あー、このようなトイレが部屋の中にあったら、ドアがついていても、臭い飯になってしまうね
たまに現れる部屋の中の蝋人形。毎回ながらびっくりさせられる。
この方は黙々と作業中。封筒を作るため、のりを塗ってるっぽい。
前、映画「刑務所の中」で見たことあるの。囚人の主人公が封筒作りに励んでるのを
独居房の中をのぞいてみる。
独居房の中に昼夜一定の期間入れ、部屋から出さず減食させ反省させる「屏禁罰」というもので使われたみたい。
第4舎24房では「昭和の脱獄魔」と呼ばれる人物が脱獄事件を起こした部屋らしい。
NHKのテレビドラマ化するなどで話題となった人物で、11年間の間に4回脱獄に成功したんだって
上の写真にうつってる鉄格子を根気良く揺すり続けてねじを緩めたあと、看守の隙を狙って鉄格子を外して廊下に脱出!天窓の硝子を頭突きで破って逃走したって・・・すごいw
きっとこのパンツ一丁の人がTHE昭和の脱獄魔なんだろうねw
あそこまで素手でのぼったのもすごいと思う
昔の共同室の様子っぽいよね。現在の網走刑務所よりは広くないし、きっとこの蝋人形の数と同じ3人部屋なのかも。
監獄の寒さ
この独居房には、政治犯も多く収容されていました。網走監獄の厳しい暮らしを物語る彼らの言葉が次のように残されています。
「ただ、寒かった。骨のずいにしみとおるあの言葉に絶する寒さは、六年間の網走生活の記憶を、今もなお冷たく凍りつかせているー
真冬には、零下30度にさがることもめずらしくなかった。そんなときには、暖房のはいった監房のなかでも零下8度か9度とかをしめす。はいた息が壁にあたると、見る間に凍り付いて、無数のこんぺいとうができる。こんぺいとうは壁にだけできるとはかぎらない。うっかりすると眉毛のさきや鼻の頭にもできる。しょっちゅう気をつけて鼻をもんでいないと、やけどのようにどろどろになって腐ってしまう」
舎房内の暖房
網走監獄の開設当初は、このように薪ストーブを使用して暖を取り、その後は時代と共に近代的に設備されてきた。
今はちゃんと暖が取れているみたいだけど、昔の監獄は木造だし、超寒そう・・・というか限界超えて凍死してしまうね
たくさんの人が生活を共にする刑務所では、皮膚病など流行しやすく、衛生面からも浴場は欠かせない施設の一つだったんだね。
脱衣から着衣まで15分間で済ませないといけない短いお風呂時間。
脱衣棚上の金網は反対側の者と、物のやりとりができないように取り付けてあるんだって。
一槽入浴~3分、洗身~3分、二槽入浴~3分、洗顔し体をふいて脱衣場に戻る。
なんと慌しい入浴タイムなんだろう
しかし、蝋人形の方々、いいケツしてました
明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、一定の期間生活させる罰がありました。窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。
この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設しました。
窓もない真っ暗な部屋での生活って一日でも耐えられなさそう・・・
懲罰房は外から光が入らないようにつくられ「闇室」と呼ばれたみたいで、獄内規則を犯した受刑者が7昼夜重湯のみあたえられて入居させられたんだって。
重湯ってなんだ?と調べたら、おかゆのことか
教誨堂・・・なんと読むのでしょう?「きょうかいどう」。
今でいう教会のことだね。
中はなんだか洋風チック
明治45年に復旧で建てられたこちらの教会堂。受刑者たちの手によって建てられたみたいだけど、「ここは神仏の宿る家だから」と、どの建物よりも精魂をこめて造ったと言われていて、受刑者たちの唯一の憩いの場になったとのこと。
この後は網走監獄博物館内にあるお土産ショップへ!
博物館 網走監獄 散策マップ
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